「有名な陶芸家って、誰を知っておけばいいですか?」
陶芸に興味を持ち始めると、きっと誰もが一度は思うはずです。うんうん、わかります。私もそうでした。まるで広大な海に一人で放り出されたような、どこから手をつけていいかわからないあの感じ。とりあえず有名な人の名前を覚えておけば、通っぽく見えるかな?なんて下心も、ちょっとだけあったりして(笑)。
でもね、今ならはっきり言えます。ぶっちゃけ、テストみたいに全員の名前と作風を暗記する必要なんて、これっぽっちもありません!
じゃあ、この記事は意味ないのかって?いやいや、逆です。これから私が紹介する陶芸家たちは、いわばあなたの「好き」を見つけるための、最強の羅針盤になってくれる人たち。彼らの作品や生き様に触れることで、あなたが漠然と「いいな」と感じるものの正体が、少しずつ輪郭を現してくるはずです。それは、自分の作りたい作品のヒントになるかもしれないし、ただただ鑑賞する喜びを教えてくれるかもしれません。
この記事を読み終える頃には、ただの土の塊が、とんでもない物語を秘めた宝物に見えてくるはず。あなたの陶芸ライフが、今日から100倍面白くなることをお約束します。さあ、一緒に深くて楽しい「陶芸家の沼」へ、足を踏み入れてみませんか?
有名な陶芸家を知るというのは、学校の勉強とはまったく違います。これは、あなた自身の「好き!」という感情の解像度を、ぐぐーっと上げていくための、最高にエキサイティングな旅なんです。
「このゴツゴツした感じ、なんか惹かれるな」「この滑らかな曲線、ずっと見ていられる…」「この色、どうやって出すんだろう?」――。巨匠たちの作品に触れると、そんな風に心が小さく、でも確かに震える瞬間があります。その「なんでだろう?」を追いかけていくことこそが、陶芸の本当の面白さへの入り口。だから、これから紹介する作家たちの名前を、無理に覚えようとしなくて大丈夫。ただ、「へえ、こんなヤバい人がいたんだ」くらいの気持ちで、気軽に読んでみてください。あなたの心に引っかかる誰かが、きっと一人や二人はいるはずですから。
まず押さえておきたいのが、「人間国宝」と呼ばれる人たち。正式には重要無形文化財保持者という、なんだか難しそうな名前ですが、要は「この人の技術は国の宝だから、ちゃんと記録して後世に残そうぜ!」と認められた、とんでもない技術を持つ人たちのことです。
でも、「人間国宝だからスゴい」で終わらせてしまうのは、本当にもったいない!彼らはただ技術が優れているだけじゃない。一人ひとりが、とんでもないこだわりと、信念と、そして人間くさい魅力にあふれた「変人(もちろん、最大級の賛辞です!)」なんです。彼らの作品は、いわば旅の始まりの地図。ここを起点に、あなたの冒聞が始まります。
まず絶対に外せないのが、濱田庄司(はまだ しょうじ)です。民藝(みんげい)運動の中心人物で、「用の美」という言葉を聞いたことがある人も多いかもしれませんね。日々の暮らしで使われる道具にこそ美しさが宿る、という考え方です。
でもね、「用の美」って、便利な言葉だけど、思考停止ワードでもあると私は思うんです。「ああ、民藝ね、用の美ね」で片付けちゃうと、濱田庄司の本当のヤバさを見逃してしまう。彼の作品の何がすごいって、理屈抜きの「気持ちよさ」なんですよ。轆轤(ろくろ)で引かれた大皿の、おおらかで、どこにも無理がないのに、寸分の狂いもなくビシッと決まっているフォルム。そこに、ささっと流しかけられた釉薬の景色。作為がないように見えて、実はすべてが計算され尽くしている。いや、計算というより、もはや身体に染み付いた「型」が、自然と美しい形を生み出している感じ。
これはもう、デッサンが狂いまくってる人が「味のある絵」を描こうとするのとは、次元が違います。圧倒的な基礎技術、デッサン力があるからこそ、力を抜いた線が生きる。濱田庄司の作品は、まさにそれ。この「気持ちよさ」を知っておくと、他のうつわを見たときに「あ、これはちょっと狙いすぎだな」とか「おお、これは濱田庄司的な気持ちよさがあるぞ」とか、自分の中に一つの「基準」ができる。この基準を持つことが、作品を見る目を養う第一歩になるんです。
濱田庄司と同じ時代に活躍しながら、まったく違うアプローチで陶芸を極めたのが、富本憲吉(とみもと けんきち)です。この人は、模様に取り憑かれた人。彼の有名な言葉に「模様から模様を造るべからず」というのがあります。どういうことかというと、「既存のデザインを真似するんじゃなくて、自分の目で自然をよーく観察して、そこからオリジナルの模様を生み出せ!」っていう、超ストイックな教えです。
彼は、庭のシダの葉を来る日も来る日もスケッチし続けて、完璧なシダ模様を自分のものにした、なんていう逸話があります。その執念、ちょっと怖いくらいですよね(笑)。でも、だからこそ彼の作品に描かれた草花や幾何学模様は、ただの飾りじゃない。生命感にあふれていて、緊張感と品格が半端ないんです。
彼の作品を見ると、「デザインする」ってどういうことなのかを、根本から考えさせられます。安易にパターンを繰り返すのではなく、対象物の本質を掴むまで見つめ続ける。その眼差しからしか生まれない美がある。もしあなたが、自分の作品に何か模様を入れたいなと思ったとき、ぜひ富本憲吉のことを思い出してみてください。「私は、この模様の何を美しいと感じているんだろう?」と自問自答する、良いきっかけになるはずです。
近代陶芸の父とも呼ばれるのが、板谷波山(いたや はざん)です。この人は、もう、完璧主義の鬼。ラスボスです。少しでも気に入らない作品は、窯から出した瞬間にハンマーで叩き割った、という伝説はあまりにも有名。弟子が「先生、もったいないです!」と止めようとしても、「こんなものは世に出せん!」と聞かなかったとか。えええ、私だったら絶対拾ってメルカリで…なんて考えちゃう凡人には、到底たどり着けない境地です。
彼の代名詞とも言えるのが「葆光彩磁(ほこうさいじ)」という技法。マットで、しっとりとした質感の釉薬の下から、模様がぼうっと浮かび上がってくるような、夢みたいに美しい磁器です。初めて本物を見たとき、私、本当に息が止まりました。天女の羽衣って、たぶんこんな感じなんだろうな、とか陳腐なことしか言えないくらい、言葉を失う美しさ。
波山の作品が教えてくれるのは、美に対する一切の妥協を許さない「気高さ」です。自分が目指す美のためなら、時間も労力も、そして完成した(ように見える)作品さえも、ためらいなく捨て去る。その狂気的なまでの姿勢こそが、神々しいまでの美を生み出す。自分の作品作りで「まあ、こんなもんか」と妥協しそうになった時、波山の叩き割るハンマーの音が、どこからか聞こえてくる気がするんです。…もちろん、初心者のうちは、割らずに大事にしましょうね(笑)。
さて、人間国宝というレジェンドたちの話をしてきましたが、ここからはぐっと現代に近づきますよ!今、この瞬間もアトリエで土と格闘し、新しい表現に挑み続けている作家さんたちの話です。何がすごいって、彼らの作品はギャラリーやデパートで実際に手に入るかもしれないし、運が良ければ個展でご本人に会えるかもしれない。SNSで制作過程を覗き見できちゃうことだってあるんです。そんな、私たちにとってより身近なスターたちを紹介します。
現代陶芸のトップランナーと言えば、この人の名前を挙げないわけにはいきません。青木良太(あおき りょうた)さんです。彼の作品を一言で言うなら「釉薬の魔術師」。あるいは「錬金術師」。ゴールドやプラチナ、見たこともないような不思議な質感の釉薬を駆使して、まるで異世界から来たオブジェのような作品を生み出します。
伝統的な産地である岐阜県の多治見に拠点を置きながら、彼のやっていることは超未来的。科学者のように何千、何万というテストピースを焼き、釉薬のデータを収集・分析する。その徹底ぶりは、さっき紹介した富本憲吉のストイックさにも通じるものがあります。でも、出来上がってくる作品は、理屈っぽいどころか、めちゃくちゃ官能的でエモーショナル。なんで!?って思いますよね。
私が思うに、青木さんのすごさは、伝統的な技術や知識という「縦軸」と、現代的な感性やテクノロジーという「横軸」を、完璧に交差させている点にあるんです。そして、自分の作品をどう見せ、どう届けるかというプロデュース能力もずば抜けている。陶芸家も、ただ良いものを作っているだけじゃダメな時代。自分の世界観をどう発信していくか。青木さんの活動は、これからの時代の作家のあり方を、私たちに見せてくれている気がします。
「えっ、奈良美智(なら よしとも)って、あの女の子の絵を描くアーティストでしょ?」って思いました?はい、正解です。でも、その認識だけだと、もったいない!彼は、実はめちゃくちゃパワフルで魅力的な陶芸作品も作っているんです。
私も最初は、彼の絵のファンだったんですが、ある時、展覧会で彼の立体、特に陶の作品を初めて見て、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けました。ちょっと不機嫌そうだったり、何かを訴えかけてくるような瞳の、あの女の子や犬が、土の塊として、そこに「いる」んです。絵画で見るのとは、まったく違う存在感。なんだか歪んでいたり、釉薬が垂れていたり、完璧なツルツルの造形じゃない。でも、その不完全さこそが、たまらなく愛おしい。つい、そっと撫でて「どうしたの?」って話しかけたくなるような。
奈良さんの作品は、技巧がどうとか、伝統がどうとか、そういう物差しを軽々と飛び越えて、見る人の感情にダイレクトに突き刺さってきます。上手いとか下手とかじゃない。「好き」か「嫌い」か、もっと言えば「心が揺さぶられる」か「そうでもない」か。陶芸って、こういうプリミティブな表現もできるんだ!ということを、彼は教えてくれます。技術的に完璧なものだけが正解じゃない。あなたの伝えたい気持ちが形になれば、それはもう立派な作品なんだよ、と背中を押してくれるような気がするんです。
もし、陶芸を始めたばかりの友人に「最初に買うなら、誰のうつわがおすすめ?」と聞かれたら、私は岡崎裕子(おかざき ゆうこ)さんの名前を挙げるかもしれません。彼女の作るうつわは、とにかく幸福感に満ちあふれているんです。
インスタグラムなんかで彼女の作品を見ると、もう、ため息しか出ません。やわらかな白や淡いブルーの地に、繊細で愛らしい動植物のモチーフが描かれている。でも、ただ可愛いだけじゃないんです。どこか異国の物語のような、ちょっとノスタルジックで、静かな空気が流れている。このお皿に何を乗せよう?このカップで何を飲もう?って、妄想が止まらなくなる!まさに「丁寧な暮らし」のお手本みたいな世界観です。
でも、私が岡崎さんのうつわに惹かれるのは、そういうオシャレなイメージだけが理由じゃありません。彼女のうつわには、日々のちょっとしたドタバタや、ささやかな喜びを、まるごと優しく受け止めてくれるような温かさと強さがあるんです。轆轤で作られた伸びやかなフォルムと、手描きの絵付けの温もり。それが絶妙なバランスで成り立っている。彼女のうつわが一つテーブルにあるだけで、いつもの食事が、なんだか特別な時間に変わる。それって、もはや魔法だと思いませんか?「誰かの暮らしを豊かにする」という、うつわ本来の役割を、最高に素敵な形で実現している作家さんだと思います。
さて、ここまで王道から現代のスターまで見てきましたが、お次はちょっと毛色の違う人たちです。陶芸という世界の「常識」や「当たり前」を、気持ちいいくらいにぶっ壊して、新しい地平を切り拓いた革命家たち。彼らの存在を知ると、「え、これも陶芸なの!?」と、あなたの価値観がぐらぐら揺さぶられること間違いなし。こういう「普通じゃない」人たちのことを知るのも、めちゃくちゃ面白いんですよ。
出ました、北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)!この人のことを語り始めると、もう一記事書けちゃうくらいなんですが、一言で言うなら「美の暴君」です(笑)。書家であり、篆刻家(てんこくか)であり、画家であり、そして美食家。彼は、自分が開いた超高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」で、客に出す料理のための器が気に入らないという理由で、「だったら俺が作ってやる!」と、自分で陶芸を始めてしまったという、とんでもない人です。
エピソードがいちいち破天荒で面白い。横柄で、傲岸不遜で、敵も多かったと言われていますが、彼の美に対する執念と審美眼は、紛れもなく本物でした。「器は料理の着物だ」という有名な言葉通り、彼の作る器は、料理が盛られて初めて完成する、と言わんばかりの存在感を放っています。織部、志野、備前…あらゆる日本の伝統的なやきものを、自分流に解釈し、再構築していく。そのセンスは、もはや嫉妬するレベル。
魯山人を知ると、うつわと料理の切っても切れない関係を、痛いほど思い知らされます。この料理には、どんな器が合うだろう?この器の魅力を最大限に引き出すには、何を盛ればいいだろう?そんな風に考える楽しみは、魯山人がいなければ、ここまで一般的にはならなかったかもしれません。彼の破天荒な生き様は、美のためなら常識なんてクソくらえ!という、清々しいまでのパンク精神を教えてくれます。
「芸術は爆発だ!」のフレーズと、太陽の塔であまりにも有名な岡本太郎。彼が陶芸?と意外に思うかもしれませんが、これがまた、ものすごいんです。彼の爆発的なエネルギーの源流には、実は「縄文土器」との衝撃的な出会いがありました。
ある日、博物館で縄文土器を見た太郎は、その荒々しいまでの生命力、うねるような造形、過剰なまでの装飾に、雷に打たれたような衝撃を受けます。「なんだ、これは!」と。それまでの美術の常識では、弥生式土器のような、整ったシンプルなものが「美しい」とされていました。でも太郎は、縄文土器にこそ、日本文化の根源的なエネルギーが宿っていることを見抜いたんです。
その衝撃を自らの手で形にしたのが、彼の陶芸作品です。顔の形をしたグラスや、奇怪な模様が刻まれた黒い陶器。一見すると、ふざけているようにも、使いにくそうにも見えます(笑)。でも、それでいいんです。彼の作品は、便利さとか、用の美とか、そういう次元で語るものじゃない。理屈を超えて、私たちの魂を直接揺さぶりに来る。眠っていた原始的な感覚を、無理やりこじ開けにくるようなパワーがあるんです。岡本太郎の作品は、陶芸が持つ「呪術的」とも言える側面を、私たちに思い出させてくれます。形に、魂を込める。その原初的な喜びを、ぜひ感じてみてください。
ふぅ…すみません、ちょっと熱く語りすぎましたかね?好きすぎて、ついつい筆が、いやキーボードが走ってしまいました。
ここまで、人間国宝の巨人たちから、現代のスター、そして常識破りの革命家まで、本当に色々な作家さんを紹介してきました。でも、忘れないでくださいね。私が最初に言ったことを。一番大事なのは、テストみたいに彼らの名前を覚えることじゃありません。あなたの心が「あっ、好きかも」と、小さくても確かに動いたかどうか。ただそれだけなんです。
今日紹介した作家たちは、広大で、深く、面白すぎる陶芸の世界の、ほんの入り口に立つドアに過ぎません。濱田庄司というドアを開ければ、そこには民藝という豊かな世界が広がっています。板谷波山というドアの先には、完璧な美を追求する孤高の道がある。岡本太郎のドアなんて、開けた瞬間に爆風が吹き荒れているかもしれません(笑)。
どのドアを開けるのも、あなたの自由です。そして、ドアの先にどんな道が続いているのか、どんな新しい作家との出会いが待っているのかは、あなた自身の冒険です。まずは、今日気になった作家さんの名前を、気軽に検索してみてください。美術館のサイトでも、個人のギャラリーでも、なんならインスタのハッシュタグでも構いません。ピンときた作品の画像を、じっと眺めてみてください。
そこから、あなたの陶芸物語が、きっと始まります。そしていつか、あなた自身が土に触れ、自分の「好き」を形にする日が来るかもしれません。その時、今日出会った作家たちの誰かが、あなたの作るものの、遠い道標になってくれるはずです。